コラムとエッセイの違い、何のために読書するか、by姫野カオルコ(姫野嘉兵衛)
● 『ああ、禁煙vs喫煙』は、コラム集です。
(朝日・読売・日経・赤旗の新聞に連載したものを、一冊にしたコラム集)
英会話学校に通っていたとき(ずいぶん昔のことになります)、アメリカ人の先生が「エッセイとコラムはちがう」と話されました。
◎エッセイ=本当に個人的な、その人の日常の身辺雑記。学校で宿題に出されるような「作文」を、ぼくたち(先生のこと。weを主語で話されたのでこう訳しておきます)は「エッセイ」と呼んでいる。とくにオチ的なものはない。
◎コラム=複数の人が共通に知っている事項について、著者の考えを述べたもの。考えを、多くの人に「読ませる」ように文章が構成されていて、短文の中にも起承転結がある(オチ的なものがある)。
こんなふうなことを聞いてから、私はエッセイとコラムを微妙に分けています。同じ講談社の『ああ、懐かしの少女漫画』はエッセイ集、『ああ、禁煙vs喫煙』はコラム集。
でも。
日本では、コラムという言い方が普及しておらず、エッセイもコラムもまとめてエッセイと分類されて売られていることが大半なので、『ああ、禁煙vs喫煙』についても「エッセイ集」として売られています。
●評論
評論というジャンルもあります。
評論=学術的な、あるいは長年にわたる調査・研究をもとにして、ある事項について述べたもの、です。
このジャンルは、おもにその分野を専門とする大学の先生・研究所の所員などが書かれることが多いです。
講談社文庫オリジナルの「ああシリーズ」は、『ああ、懐かしの少女漫画』も『ああ、禁煙vs喫煙』は、エッセイ集(コラム集)であって、評論ではありません。
●エッセイ集(コラム集)というのは「たのしく読むもの」、だと私は考えます。
会社や学校で、人は多かれ少なかれ、他人に会います。しゃべります。「おはようございます」とか「あ、すみません」とか、「この書類できました」とか。
ときにはいっしょに食事や飲食をすることもあるでしょう。
そういうことをする相手を、「知人」と呼びましょう。
日常生活において、人は周囲の知人とよく接触します。
しかし、意外にも、知人と「ゆっくり話せる機会」は、皆無にひとしいのです。
仕事中や授業中はもちろん、短い休憩時間に、そうそうゆっくり話してはいられません。会食のときだって、10人や6人で集まっていれば、話題は「あたりさわりのないところで」とどめるようにするのが、まことに日本人です。
だから、世界の調査でも「インターネットでブログを公開している人口」のトップは日本人です。「和」を乱したくないから、pc相手に「ゆっくりしゃべる」のですね。
そんな「だれかと、ゆっくりと話しているようなかんじ」を文字で体験するのがエッセイ(コラム)だと私は考えています。
ネットのブログやノートに書く日記は、その人個人の、王様の耳はロバのミミ的な自己満足で書くもの。いっぽうエッセイは、読む人の目を考えて、たのしく読ませるもの。
●では、たのしく読むことについて。
たのしく読むことを求めていない人はわりにいらっしゃいます。
「おれは忙しい」といつも強調するサラリーマンなどに。
そういう方は、本を読む=情報をゲットする、としか考えていません。
取扱説明書を読む延長です。
実際的に役立つ情報をゲットするためにだけ本を読みます。けっこういらっしゃいますよね。
こういうタイプの人は、読書にたのしさを求めていないのです。だから速く読みやすいように書いた文体の本を「いい本だ」と感じます。読書がたのしくないので、速く終わらせたいからです。必要な栄養素を錠剤にしてごくんと飲めばよいような食事を求めている人。
よって、エッセイや小説は、このタイプの人にとってはよくない本です。エッセイや小説には、読んでトクすることは何も書かれていません。タメになることも。
エッセイや小説(文芸ジャンルの本)というのは、あくまでも「たのしみ」であります。「読んでどうなるか」で読むものではない。「読んでるさいちゅう」をたのしむものです。
食事をするのに錠剤ではなく、おいしい料理を食べるようなもの。どんな料理がおいしいと感じるかは、各人の好みによってちがいますが。
食事にたとえると、文芸ジャンルの本を読むのは、錠剤にはできないもの、人が、毎日を生きているうちの、「心のあまり」の部分を、いろんな方法で処理したものです。