姫野カオルコ周辺ブログ…運営&宣伝=KOGA工房

★小説家。嘉兵衛は漢字表記。「嘉兵衛」で「かおるこ」と読む。
 
ちょっと前のもの
 
姫野カオルコのエッセイは fm姫野
姫野カオルコのエッセイは嫌いではないが小説ほど正直ではない。
…と感じる人もいてくれることを祈っている。
姫野カオルコのエッセイをおもしろく笑って読んでくれる読者がいてくれるように。
…とも祈っている。


エッセイが好きな人というのが、世の中にはいる。
エッセイが好きな人というのは、エッセイが好きなのである。
エッセイは読みやすい。
なぜ読みやすいかというと、カメラアイが一点定点だからだ。
視点が定まっている。語り手がはっきりして、一人から動かない。
これが読みやすい。

小説家には、つまらないエッセイを書く人がいる。
つまらないエッセイを書く人は、職業作家になったときから、あるいはなる前から、エッセイとは◎◎◎だ、と思ってしまった人である。どう思ったか。「エッセイとは自分の日常雑記を書くこと」と思ってしまった人である。
そういうふうにエッセイをとらえている小説家のエッセイは、オチもなにもなく、たんに日常雑記なので、つまらない…と思う人が多い。
(ただし、私は個人的に、だれかの「たんなる日常雑記の、だらだらとした日記」はとても好きだ。他人の、日常を、えんえんとウォッチングしているのはおもしろい。天井裏からじーっと人の生活を見ているのはさぞやおもしろいと思う。その人がよぼよぼのおじいさんで、なにもエッチなことなどしなかったとしても。むしろ、そんなことはしてくれないほうがおもしろい)


「ガラスの仮面の告白」という本が自分にはある。あれはエッセイではない。デビューまもないころのものなので、構成などが未熟でちゃちなゆえに、あれは小説ではないだろうと判断されるのはしかたがないが、内容の質として、あれはエッセイではない。

むしろ「近所の犬」のほうが、質としてはエッセイである。
しかし、「近所の犬」は、綴られるエピソードは創作されているので、小説である。エッセイのようにつるつる読み進めていけるように構成した小説である。だから、「近所の犬」をエッセイととらえて、たのしんでもらえたらいいと思う。


エッセイを書くのは、私には、「ブレーキをかけながらおこなわねばならない修行」である。
正直な気持ちをほりさげないこと。
正直な考えをはっきりのべないこと。
テーマについて深くきりこんでいかないこと。
テーマについての考えをきつい口調で形容しないこと。

私は、文学というものは、なしですませられるのなら、なしですませられるほうが幸せなもの、だと考えている。
文学とは、人心の内にある暗い部分を照らしてしまうものだからである。
もちろん、暗い部分を照らすコメディ、という体裁もある。完成したかたちが、売りもの(商品)となるさいに、どうジャンルわけされるかとは関係なく、文学というものは、持っているのがやっかいなものである。

それは、たとえば、ジムや、公園で犬の散歩をしていて出会う犬知り合いや、小学校の保護者の親睦会では、おもてに出してはいけないなにかである。
こういう場を、ママ友5人でお茶したときの会話、とするなら、私にとってエッセイとは、こうした場でいやな顔をされないように、ブレーキをかけながらおこなわねばならない書き物である。

ママ友5人でお茶した会話をおこなった、ママさんそれぞれは、家に帰ったら、それぞれにいろいろと思うことや感じることや考えることがあるのだが、喫茶店では、そういうことは言わないようにブレーキをかけているのである。


〜姫野さん、ぼくは姫野さんの「ガラスの仮面の告白」が大好きです。でも「変奏曲」は嫌いです。もっとエッセイを書いてください。〜
というような旨の手紙をもらったことがあるが、私は、この人は、私のエッセイが好きなのではなく、あるいはエッセイというものが好きなのではなく、「私小説」が好きなのだと思う。
あるいは、一人称で書かれた、カメラアイが定点にあるところの心情小説が好きなのだと思う。
だから、〜もっとエッセイを書いてください〜という、この人の要望に応えて、このブログから「日記」のカテゴリーのやつをプリントアウトしてプレゼントしたとしても、「つまらなかった」と思うはずだ。

でなかったら、こういう人は、文学を必要としない人なので、ママ友5人でお茶したときの会話で、人とかかわりあっていけばよいから、しあわせである。よかったですね。