●関口くんは「仕事でつきあいのある人」というのではなく、私にとっては、創作する上での、「頼りとしていた人」でした。
編集者は、推敲途中の原稿も読みます。それを経て、市場に出る完成した状態、をまっさきに読むのは関口くん。このスタンスで2005年の長編から創作してきたし、彼はデサイナーにはレア中のレア中のレアというくらいめずらしく、いつも、ほんとによく読んでくれてきた。だから、なんていうか、原稿が完成状態になったあとは関口くんにまかせておきさえすれば大安心だった。「こんどは、関口くんはどんなふうにデザインしてくれるかなあ」みたいなことをハリにして、脱稿直前の体力的に苦しくなってきた時期を毎回のりきってきたところが、私にはありました。
●スター作家というのがいます。何を書いても売れるとか、あるいは、その時代その時代において、若くてきれいで(若くてイケメンで)文学少年少女のあこがれ的な存在の人とか。そういうスター作家の作品は映画化されたりテレビドラマ化されたり、すぐ実現しますが、いわば大部屋作家の私の場合は、ビジュアル化されるとか、売れて話題になるとかいうことはまずない。
だから、文芸誌に寄せたときの挿絵、本になったときの装丁、を見るのは、なんだか娘の結婚式で、娘がきれいにしてもらうのを見る親になったような幸せなひととき。
●たとえると、作家と担当編集者=花嫁の親、書いた小説・随筆=花嫁さん、読者=お婿さん。装丁する人=花嫁さんのメイクやウエディングドレスや式場選びをしてくれる人。ヘアメイクや会場や式の次第をまとめてパックで大手業者に頼むと、システマティックにちゃっちゃっとやってくれるけど、そういうところじゃなく、ぜんぶひとりで丁寧にやってくれるメイクさんもいる。
たとえれば、関口くんは、そんなデザイナーだった。「長女のときは××さんで次女は〇〇さんで、どの方にもおせわになったけど、三女からは…くんなんですよ。八女のこの子もメイクさんは…さんにたのみましょうね」という人だった。私にとっては。娘の髪質や肌のいろあい、爪の形や、体型、そんなものも、すべて心得ていて、衣装やヘアメイクやネイルをしてくれるメイクさんみたいな人でした。
●長編は書くのに時間がかかるし、内容によっては調べ物で時間をくう。脱稿近くには、肉体的にとても疲れてくる。そんなとき、関口くんは「どんな話なのかなあ。いまから読むのがたのしみ」と言って、最初の読者として待っててくれて、いつもハリになっていました。こんどの話も「次はいよいよウチからですね。久しぶりに名前が出せます」と言ってくれていたのに、私がのろいために間に合いませんでした。
●私は仕事がら、電話で人とやりとりすることがめったにない。暮れなんかよけいにない。今年はとくに長編やってたからますますなかった。暮れに文春に行ったから電話したのだけど茨城にいて会えなくて、それが最後の発信歴で、最後の着信歴が、彼の突然の死を知らせる電話です。メールだってまだいっぱいpcに残ってる。関口くんのメール、奥さんのお話とかお子さんのお話とかゆかいだったんだよね…。ご家族のことを思うと胸がつぶれそうです。
●こんなことがあると、ほんとに思うよ。みんな生きててって。みんな元気でいてって。みんなジャニーズのメリー&ジャニー姉弟みたいに、いつまでも元気でいてください。みんな元気で生きててください。